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第48回:「顕名化と『個別最適化』の話」

中川郁夫 コラム

<はじめに>

先日、次のような絵を見つけた。
みなさんは、以下の絵から何を感じ、何を読み取るだろうか。

今の教育システム
(*)https://resemom.jp/article/2021/01/18/60019.html
(*) https://note.com/janedoeof4/n/n16bd5475d7af
(*) https://www.pinterest.jp/pin/459367230741844415/

フェア(公平)とはなんだろうか。この場面で「木に登る」ことで評価することにどんな意味があるのだろうか。試験の結果、お魚さんは「能力がない」と判断されてしまうのだろうか。

上記の絵はアルバート・アインシュタインの言葉を元にしたものらしい。

“Everybody is a genius. But if you judge a fish by its ability to climb a tree,
it will live its whole life believing that it is stupid.”

「誰もが天才だ。でも、木登りの能力で魚を判断したら、その魚は一生、
 自分はバカだと信じて生きていくことになる。」

なるほど、この言葉は考えさせられる。自分の子供にあてはめてみるとドキッとする人もいるのではないだろうか。人それぞれに得意・不得意があり、資質・能力は本来多様だということ。今の教育で「評価する」ことは、人としての評価ではなく、極めて限定された資質・能力だけを見ているということ。試験の成績だけで人の善し悪し・出来不出来を判断することは限定された価値観を前提とすること。さらには、その評価が本人を傷つけ、やる気を無くすことに繋がる可能性があること、など、いろんな気付きがある。

今回は顕名化と「個別最適」について考えてみたい。教育現場では「個別最適」が言われ始めているが、どうやら2つの異なる見方があるようだ。「個別最適」は顕名化とどのような関係にあるのだろうか。前々回(第46回)、前回(第47回)と顕名化と教育、顕名化と学びについて考えてきたが、今回はさらに深掘りして考えてみたい。

<個別最適による苦手克服>

教育現場の「個別最適」は「苦手克服」を目的とするものが多い。学びの可視化・数値化が進み、一人ひとりの学習の様子を記録・参照できるようになった。今では、苦手な教科はもちろん、具体的にどの部分ができていないかを把握できる。正解を覚えるまで・解けるようになるまで苦手な問題を繰り返すことが「苦手克服」につながるのだという。

試験の成績向上には、得意を伸ばすより、苦手を克服するほうが早い。前回(第47回)も書いた通り、苦手教科のほうが伸びしろが大きい(向上余地がある)ので、試験の合計点数を上げるためだと考えれば当然だろう。今の試験制度・受験制度を考えれば、苦手克服が「効率的」な学習方法なのは頷ける。

一方で、それが本当に本人のためか、は一考の余地がある。冒頭の話を思い出してほしい。「木に登る」ことで評価されることは何を意味するのだろう。今の受験制度が一人ひとりの個性や「らしさ」を活かすことに不向きであることは前回も述べた。だが、苦手克服が本人にとって伸ばすべき資質・能力とフィットしているか、目指すべき姿は「平均的にできる」ことなのか、を考える余地はないだろうか。

あらためて考えてみたい。ある教科が苦手だとわかったときに苦手教科の苦手箇所を何度も繰り返し勉強させるのはどうなのだろうか。それも、試験に出る主要教科だけを対象に。もちろん、今の受験制度や就職活動の状況を考えるとそうせざるを得ないという意見があるのはわかる。だが、それを当然と考えるのはどうだろう。すべての生徒がそうすべきだろうか。今の社会、今の教育の価値観をすべての人に強要することにならないだろうか。

<個別最適による自己発見>

「個別最適」にはもうひとつある。教育や学びを通して、本人の好きなところ、得意なところを見つけ、引き出す「自己発見」である。デジタル技術の発展・浸透は、一人ひとりの興味・関心や好き・得意を数値化・可視化することを可能にした。それが、本人の個性や「らしさ」を発見することにつながる、という考え方だ。

自己発見はこれまでの教育では軽視されがちだった。今の試験制度・受験制度では、苦手克服が成績向上に効率的なのは前述の通りである。成績をあげるためには、自分の好きなことを見つけ、得意なところを伸ばしていくことは優先しづらかった。

一方で「自己発見」を大事にする先進的事例もある。以前紹介した、広島県の教育改革で注目される「自己表現」、十文字高校(都内)の「自己発信」の取り組みもこれに相当する。

これからの社会では「自己発見」が重要になる。多視点・多様性の時代、さまざまな価値観が共存する。一律な価値観や基準で人を評価するのは難しくなる。昔の人達が確立してきた価値観に縛られることなく、一人ひとりが自らを理解し、考える力が意味を持つ。

<顕名化に関する考察>

顕名化は、教育の「個別最適」とどう関係するのだろう。

学びの可視化は生徒の得意・不得意を把握する。技術の進歩は、一人ひとりの学習や学びの様子を記録し、参照することを可能にした。今後、さらにさまざまな情報が参照できるようになるだろう。「一人ひとりに特別な教育を提供する」という意味では「苦手克服」も「自己発見」も顕名化に見える。

ここで「視点」の違いを意識したい。前回(第47回)の記事で触れた「視点」の話を思い返してほしい。「苦手克服」は既存の教育の枠組みから見た生徒の取り組むべき方向を、「自己発見」は生徒本人から見て進むべき方向を考えることになる。

顕名化は「一人ひとりに特別な体験を提供する」ことを目指す。一人ひとりに関する情報が参照できる時代、従前の社会・従前の枠組みの視点で世の中の平均に近づけようとするのか、それとも本人の視点で、本人にとっての「特別」を引き出そうとするのか。その意味はまったく異なるものになる。

<おわりに>

最後に「うさぎとカメ」の話を考察してみたい。

誰しも一度は聞いたことがあるだろう。かけっこの途中で昼寝したうさぎ。ゆっくりとゴールまで歩み続けたカメ。才能があっても怠けていたら負ける。コツコツと努力を続ければ最後には勝てる。そんな話だとされる。

今回の記事を読んだあとでは見え方が変わるかもしれない。うさぎとカメにとって「かけっこ」は公平な競争なのか。陸上ではうさぎが、水中ではカメが活躍することは想像に容易い。カメが陸上でうさぎと競争することは何を意味するのだろうか(笑)。

かけっこを前提にうさぎとカメの勝敗や努力を語るのか、そもそも、うさぎとカメがそれぞれどんな個性や強みがあるかを考えるのか。教育に携わる方々や子供の将来を考える大人たちにこそ考えて欲しい話かもしれない。

※本内容の引用・転載を禁止します。

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