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第46回:「顕名時代の教育」

中川郁夫 コラム

<はじめに>

「受験」
 -  入学や入社、また資格をとるための試験を受けること。

いろんなところに「受験」がある。大学受験、高校受験が人生の分岐点になった人もいるだろう。中学受験を経験した人も多い。中には「お受験」がある小学校もあると聞く。

「受験」という言葉には苦い思い出がある。私の勉強は極端に偏っていた。数学は100点で、世界史が0点、というと分かりやすいだろうか。当時は英数国理社の主要5教科を学ぶ時代。誰にも負けないものが1つや2つあっても、すべてで平均点を取れる人に勝てなかった。必然的に「受験」での選択肢は制限された。「受験」が苦手だった所以である。

当時、私は「異端児」と呼ばれた(いや、今でも異端児なのだが、笑)。先生は、満遍なく勉強して、満遍なく良い点を取って欲しかったらしい。だが、私は真逆に進んだ。明らかに偏った興味関心と勉強の仕方には呆れられた。今となっては懐かしい思い出だが (笑)。

今、教育は変わりつつある。「探求」という言葉が注目を集め、一人ひとりの興味関心を深掘りして、その生徒の個性を伸ばす取り組みも始まっている。今の時代に生まれていたら自分の進路は違っていたかも、とも思うが… (ホント、か? 笑)

今回は教育の未来について考察する。これまで、匿名市場から顕名市場へのシフトについて考察を続けてきたが、その考え方は教育においても重要なヒントを与えてくれそうだ。これまでの議論が教育にどのように関係するのか、を考えてみたい。

<匿名時代の教育>

「教育」を考える上で「受験」の話は避けて通れない。教育は多岐にわたる。いろんな視点・立場・意見があることは理解するが、それでも、受験が人生の大きな分岐点になる・なった人は多い。受験のために多くの時間を費やした、と感じている人も多いだろう(それが、自分の人生の糧になったと心から実感する人はどのくらいいるだろうか…)。

「試験の点数」で合否判断することは何を意味するのだろう。例えば、全国模試では試験の合計点に従って受験者を一直線上に並べて「あなたは何番」と順位付けする。それで大学の合格率が計算されるからオオゴトである。受験戦争と言われる世界では、兎にも角にも、この合計点をいかに増やすかが重要である。個人の興味関心に従うのではなく、点数の取りやすさを考えて勉強している人も多いのではないだろうか。(それがあたりまえ?)

合計点で合否判定するシステムは「個性」よりも「バランス」を好む。80点の教科と20点の教科がある人よりも、両方55点を取る人のほうが(試験では)優れていると判定される。結果的に、全体を平均的に底上げすることに寄与してきたと言えそうだが、個性(特に、偏りのある興味関心など)に注目するのは難しかった。

従来の教育は高度成長期の大量生産・大量消費を前提とした社会には適していたのかもしれない。平均的に優秀で、言われたことをそつなくこなす人が多く必要だった時代、バランスの取れた従順な新卒生は「総合職」として大量採用された。

「匿名の教育」は言い過ぎだろうか。従来の教育は、平均的に優秀な人材を多数輩出することを優先した。逆に言えば、その時代に一人ひとりの個性を重視することは(人的コストの面でも、技術的にも)難しかったのだろう。アナログの時代の限られた教育資源や教育環境の中、それでも学校教育が国民の教育レベルの底上げに寄与してきたことは事実である。良し悪しの議論は避けるとして、そのような時代背景だったと理解したい。

<顕名の教育>

時代は変わった。教育も変化を迎えている。その一つは「個性の重視」だろう。個別最適などの言葉が注目を集めるが、その背景を考察すると「匿名から顕名へのシフト」に関係していることがわかる。

教育を「顕名」の視点で考えてみよう。背景にあるのはパーソナライズである。本連載でも繰り返し紹介しているが、技術的に個人(個客)一人ひとりに注目することが容易になった。個客接点を通して個客データを集め、個客体験を作っていく 〜 パーソナライズが顕名市場へのシフトを促す。同様の考え方が教育にも応用できる。教育の顕名化は、パーソナライズを活かして、個人一人ひとりに特別な教育体験を提供することであり、一人ひとりの興味関心や個性・強みを引き出し、「その人らしさ」を伸ばしていくことを目指す。

デジタル技術の浸透が教育現場に変化をもたらし始めている。本連載でも、電子書籍の事例分析(第2回、第24回)でデジタル教科書について触れた。個人一人ひとりの興味関心、趣味嗜好、学力・知識レベルに応じて、それぞれの個性を引き出し、活かすための学びの環境を提供することは、技術的に可能になってきた。学習指導要領に従ってみんなが同じ進度で一律共通の勉強をするのではなく、一人ひとりに個別最適された学びが「個性を活かす」ことに寄与する可能性は大きい。

そういえば、最近「自己表現」「自己発信」という言葉が注目を集めている。広島県は県立高校の入試に際して内申点よりも「自己表現」の配点を大きくした。都内の十文字高校ではじまった「自己発信クラス」など、特別な教育プログラムを採用するところもある。自己表現・自己発信は「自分が何を伝えたいか」を重視する。教育の顕名化は「一人ひとりの価値観」を大切にし、それを引き出し、成長の糧とすることも特徴である。

上記に関連して「視点」の変化にも触れておきたい。自己表現・自己発信は一人ひとりの「自分が何を伝えたいか」を引き出す取り組みである。高校入試の内申点が「教育者がどう見ているか」を点数化しているのとは真逆の視点であることも容易に理解できるだろう。

<おわりに>

本稿では「教育の未来」について「匿名から顕名へのシフト」の視点から考察した。顕名化は「個人(個客)一人ひとりの特別な体験」を重視する。同様に教育でも「個人一人ひとりの特別な教育体験」を提供する取り組みが始まっている。今回、その一端を独自の切り口で分析してみた。

再度、時代背景の変化に注目したい。本文でも述べたが、平均的にバランスよくなんでもできる多数の人が求められた時代から、一人ひとりの個性や価値観を重視する時代へのシフトが進んでいる。社会の変化は、必然的に、教育にも変化を求める。特に、学校教育は20年後、30年後に社会で活躍する人材を輩出する場であり、将来の社会像を見越して柔軟に変化していくべきだろう。

なお、本稿は従来の教育を全面的に否定するものではないことにはご留意いただきたい。導入で受験が苦手だったと書いたが(笑)、学校教育における受験を非難するつもりはない。教育の顕名化は少しずつ広がっていくだろうが、従来の教育との共存も重要だろう。広く平均的に教育レベルを底上げするための教育システムと、これからの時代に向けて、個性を引き出し、一人ひとりを大切にする考え方の両方が必要になっていく、と考えたい。

最後に。本連載では、市場構造の変革について様々な事例を用いて解説をしてきたが、その考え方は他の分野でも大いに応用が可能である。次回以降も、さまざまな分野での「匿名から顕名へのシフト」についても紹介してみたい。

※本内容の引用・転載を禁止します。

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